マクルーハンとメディア論

別に専門家でも何でも無いのですが、H-Yamaguchi.net「マクルーハンってよくわからない」を読んで、やっぱりそうなんだなあと。私は大学時代にメディア論を勉強しようと思い「マクルーハン理論」読んで、そのあまりに直感的な比喩の連続で挫折しました。厳密に解釈しようとすればするほど訳が分からなくなる。「メディアの形態こそが中身そのものより多くを伝える」という認識は確かに僕の考え方にとても影響を与えているとは思うんですが。既にネットがあったので現実が追い越したからだと自分を説得し、深入りはしませんでした。

んで社会人になってから、ネット時代のメディア理解という売り文句の「ポール・レヴィンソン『デジタル・マクルーハン』」も読んだんですが、とても松岡正剛氏のような解釈には至りませんでした。僕馬鹿なんだなあと恥じ入っていたのですが、その後山形浩生氏の論評を読んで、そんなに間違ったもんでもなかったとささやかなプライドが守られたような安堵を感じたものでした。

私は結局もっと現実的で分かりやすい「波取り」と言われる日本の電波事業の黒歴史とかメディア形成(まるで神経系が国に根を張る過程を見るようで興奮)とか日米メディア産業構造的な現実路線を色々と読んでそっちの方がためになるなあとか思っていました。

山口氏がマクルーハンを飛ばして次に何を読まれるのかにとても興味があります。

というかはてなキーワードマクルーハンの解説がすごく面白い。「メディアの形而上学者」って呼び方はまさしくそうだなあと思います。彼を学生時代に積極評価していた人ってポストモダン的というかニューアカっぽいというかそういう感じ。メディア論研究の合意形成の希薄さの一因はマクルーハンにあるんじゃないかとすら思ってしまう。